■ある病院でのこと。

 

ある夏の日、入院中の患者さんの箸がなくなってしまいました。

どうやら、食後、患者さんが眠っている間に、職員が下膳した際に、一緒に患者さんの箸を下げてしまったようなのです。

 

患者さんは、70歳近い男性で、だれもが名前を知っているような一流商社で役員まで務めたという方でした。若い頃は最前線で誰よりも戦ってきた歴戦の企業戦士だったことでしょう。

気難しいところがあり、看護師も気安くはなしかけることができずにいました。

亭主関白を絵に描いたような方で、無口なご主人の身の回りのことは、奥様が甲斐甲斐しくこなしていました。

いつも無表情で、奥様の入れたお茶を黙って飲むような方でした。

そんな、誰よりも怒らせてはならない患者さんに限って、粗相が起きてしまう、ということもよくあるものです。

 

そんな患者さんが、箸がなくなったことに気づき、

「下膳したのは誰か?」

と看護師に問いました。

下膳したのは、一般企業の事務職員から転職してまだ間がなく、仕事にも不慣れな24歳の看護助手でした。

患者さんがお怒りになっていると看護師から聞き、看護助手と一緒に上席者であるわたしも同行して、患者さんの病室に向かいました。

 

患者さんは、凄まじくご立腹で、絶対に許さないという憤りがその様子から伝わってくるのでした。

しかも、よく聞けば、その箸は、娘さんからの還暦のお祝いのプレゼントだったそうなのです。娘さんも、商社マンと結婚し、いまはその夫の赴任に付き添って中国で暮らしているそうです。その中国で、特別に作ってもらい、帰国時にプレゼントしてくれた箸だとのことでした。

患者さんにとっては、世界に二つと無い宝物だったのです。その箸がなくなったのですから、患者さんのお怒りはごもっともでした。

「見つかるのか?」

「見つからなかったらどうしてくれるのか?」

「弁償して済むようなものではない」

と、患者さんの話は繰り返すばかりでした。

看護助手は、患者さんのあまりの剣幕に、お詫びの言葉も出ず、ただただ恐さに震えながら下を向いていました。

 

《つづく》

 

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