■組織を動かすためには、

心理構造を踏まえておかなければなりません。

 

身体構造を理解できていなければ、適切な治療ができないのと同じです。

 

■人は誰でも、

「わかっちゃいるけどやる気が出ない」

ということがあります。

 

たとえば、人には、

「人と接するのが煩わしい」

という性質があり(この傾向は男性の方が顕著のようですが)、

さらに高齢となると、

デイサービスにも来なくなって引きこもることとなり、

その結果、

足腰が弱くなるのでさらに引きこもり、

社会性のない生活を続けるので、

認知症になりやすい、

・・・という話は、みなさんもご存知の通りでしょう。

 

人間は、

よい意味でのストレスがあるからこそ、心身とも衰えず健全が保たれる、ということもあります。

 

なので、ご家族や施設の方々が、

デイサービスに無理矢理に引っ張り出すことに苦慮している、というケースもしばしば聞きます。
 

本当は、自分をコントロールすることが、

自分でできれば問題ないのですが、

そこまでストイックな人は少ないことでしょう。

 

しかし、自分でコントロールできない人が多いにも関わらず、

個人の尊重だの人権だのに守られているため、

他者が、本人を外に引っ張り出せず、

本人も引きこもりになって、お互いに困っている、ということもよく聞きます。

 

■同様に、たとえば、人は、嫌いになったら一方的に辞めたり別れたり、ということをします。

 

「どうも、この人とは親しくしていたくない」

といった違和感の段階できちんと向き合い、関係性を考える、ということはなかなかありません。

 

本当は、辞めたり、別れたり、といった結論が自分の中で出る前に、

きちんと話し合うことが大切なのでしょうけれど、

だんだんと向き合わなくなって、逃げるように関係を解消してしまおうとする、不器用な人が、

いまはとても多い時代です。

 

また、結論が出て連絡するとしても、

電話やLINEでその意思表示を一方的に済ませようとする人もいます。

 

それはまだ良い方で、

連絡すらとらずに、決別の結論を押し付けるということも珍しくなくなっています。(本人は、ただ逃げているだけなのですが)。

 

きちんと向き合わない結果、ソフトランディングとならないので、相手をストーカー化してしまい、殺されるという事件が

多々発生しているのも、当然の帰結でしょう。

 

本当は、きちんと向き合うということを自分でできれば問題ないのですが、

そうした意思表示や交渉ができない人が多く、

しかも、一旦社会人となれば、

「自由だ」「法律上問題ないはずだ」

と主張して、逃げることができるのが社会の現実です。

 

■このように、

「それが個人の自由だから」

とそれ以上介入できないとするのが、日本も含めた「幼い民主主義」です。

 

「本人が言ったらそれが最も尊重されるべき意見だ」

とそこで思考停止してしまうのが、

この「幼い民主主義」の特徴です。

 

それは、多数決主義でもあります。

 

我が国では、「民主主義=多数決」と教えられてきたきらいがありますが、

それは、幼い民主主義にすぎません。

 

では成熟した民主主義はどこかにあるのか?

と思うでしょうか?

 

それがドイツです。

 

ドイツは、

「多数決でも過ちを犯す」

ということを学習しています。

 

ドイツでは、

「どんな意見でも尊重されなければいけない。

とは言っても、人間は、良い意見ばかりを言うわけじゃない。

だから、無条件に尊重していては、良い方向に進まない」

ということを知っていて、

「成熟した民主主義」

を体得しているのです。

 

いつ、そんなことを学んだかというと、第二次世界大戦の時です。

 

ドイツは、

民主主義の名の下で、多数決を続けた結果、

600万人ものユダヤ人を殺害するというとんでもないことを

国家的に行なってしまったのです。

 

その結果、戦後、

「多数決なら正しいということはない」

と学び、個人を尊重しつつも、それを修正する必要があるという

「成熟した民主主義」

にいたった経緯があるのです。

 

そもそも、

本来の民主主義は、「個人の尊重」でもあるはずなので、

「たとえ多数側でも、少数側を蹂躙してはいけない」

という考え方を内包していますから、

 

「多数少数を明らかにして終わり」

という多数決ではなく、

 

「多数少数を明らかにしてからが始まりで、そこから

お互いが納得ゆくように話し合って結論を決める」

というのが、正しい民主主義であり、

そこに気づいたのが「成熟した民主主義」です。

 

一方、ドイツと異なり、

「多数決で決めたなら問題なし」

と思っている牧歌的な国が日本です。

 

ともあれ、

「どんな意見でも、生産的であろうが、退廃的であろうが、個人の意見だから尊重しよう」

と考えていては、

決して良い方向に向かうことはありません。

 

日本人は、ドイツのような体験をしていないので、

ピンと来ないかもしれませんが…。

 

■こうしたことは、個人レベルで考えても同じことで、

冒頭で述べたように、

「人も国も、消費的・退廃的な思考をすることもある」

という心理構造を俯瞰すれば、

「あ、そっちに行ったらあぶないな」

と、みずからわかるはずであり、

それでも誤った方向へ進んでゆくことの愚かさがわかるので、

行動が変わるはずです。

 

逆に言えば、

日頃、わたしたちは、自分の状況を俯瞰することができないため、

さまざまな違和感を覚えても、

そのまま誤った方向へ進むうちに

どんどん時間が経ち、環境や事態が変わり、いつのまにか手遅れになってしまう、

という過ちを犯してしまうという構造の中にあるのです。

 

この構造、

まさに、ゆでガエルそのものでしょう。

 

そして、

ゆでガエルではない人は少ないでしょう。

 

ほぼ日本中が

「日本ゆでガエル協会」

に加入していると言っても過言ではないでしょう。

 

世の中の多くの人が、

わかっちゃいるけど手を打たずに、最初からわかりきっていた結末を迎えて悲しんだりしてしまう、

……というのが、現実ではないでしょうか。

 

■さて、組織づくりにおいては、

人間にはそういう「ゆでガエル」の心理構造があることを知った上で

組織づくりをすることが、これからは必要でしょう。

 

つまり、職員には(人間には誰でも)

「このままがいい」

と茹でられていたい気持ちと、

「このままじゃいけない」

と手をうちたい気持ちがある、ということです。

 

職員の、

茹でられたい意見に耳を貸していては、

職場も良い方向に向かってゆくことはありません。

 

たとえば、

職員の「お金が欲しい」「休みが欲しい」という声ばかりを聞いていては、組織の生産性は上がりません。

 

反対に、

「この会社だから頑張れる」

「この仲間だから頑張れる」

と、生産性が上がるようにするためには

「茹でられていてはいけない!」

という意見を引き出し、それを応援して、行動させることが不可欠となります。

 

そのためには、

普段、どうしても目先の業務に追われ、自分自身を俯瞰することを忘れがちな職員に対して、

「このままじゃ茹だっちゃうよ」

と言い続けなければなりません。

 

それが、組織の経営者・管理職の宿命だとも言えるでしょう。

 

職員の、

「いや、茹だるかもしれないけど忙しいんで」

「もう少しゆだってもいんじゃね」

「そんなことより今日の仕事を片付けなきゃ」

「まだそこまで茹だらないんじゃないですか?」

という声に耳を貸したりして、遠慮していてはいけません。

 

むしろ、部下からは、

「忙しい」

「変えるのは面倒」

「それよりやるべきことが」

「残業になっちゃう」

「そこまでやる必要あります?」

「充分、茹だらないようにやってますけど」

という声が上がるのが当り前なのです。

 

いちいち、驚いたり、動揺する必要はありません。

 

それを

「そんなことを言っているうちに

すっかり茹ってどうするんだ?」

と、良い方向へ導くのが管理職の仕事なのですから。


人は、ほぼ全員が

変化を好まず、じっとして、

「このまま居心地の良いままでいたい」

「構わないで欲しい」

という感情を、基本的には常に持っている

ゆでガエルなのですから、

 

経営者・管理職の仕事は、

組織の中の日本ゆでガエル協会と対決して、

目を覚まさせることに尽きます。

 

そんな茹だっている職員に、

「そんなことないでしょ、何かあるでしょ?」

「なんでもいいからきになることを言ってみて」

「変えられることは変えてゆこうよ」

と働きかけ、

変化への耐性をつけさせ、

むしろ、変化するのが当り前となるようにして、

職員を覚醒し、

組織を活性化することが大事です。

 

そして、その方法があります。

 

それが、患者サービス研究所が提唱している

「HIT-Bit」

です。

 

具体的な方法については、

また別の機会にお伝えしたいと思います。