■「心は目に見えないから、わからないもの」

と思われます。

 

実際、思いがけない人から

思いがけない言葉が飛び出してきたり、

思いがけない行動に驚かされたり、ということが

日常において、

当たり前のように起きています。

 

そのため、

「心はわからないもの」

と感じることが多々あります。

 

人の心以前に、

自分の心がわからないということもあります。

 

自分の心を客観的に見ている人ほど、

自分の心のもろさ、危うさ、変わりようを認識しているものです。

 

■しかし、

「目に見えないから得体の知れないもの」

と思っていては、

自分の心をドライブすることも、

他人の心に適切な配慮をして接することもできません。

 

そこで、

その性質を断片的に理解することができる一つの視点を

共有しておきたいと思います。

 

それは、

「心と身体はパラレル」

だという視点です。

 

心に起きたことが

「なぜだろう」

と思った時に、

「身体だったらどうだったか?」

を考えると、

大抵の場合、理解できるからです。

 

■まず大前提として、

 

相手の身体に何かを提供しようとすれば、

それは、快楽や癒しや休息ということになるでしょう。

 

なぜなら、身体が求めているのは、

多くの場合、快楽や癒しや休息を得ることだからです。

 

わたしたちが

音楽を聴いたり、美味しいものを食べたり、旅行に行って普段と異なる環境をに身を置くのも、

すべて、快楽や癒しや休息を自分に与えるためでしょう。

 

一方、心が求めているのは、

周囲から理解・承認・尊重されることと言えるでしょう。

 

わたしたちが、

人と会ったり、家族や恋人に電話をして、話を聞いてもらったりするのは、

すべて、理解され承認され尊重されることを期待しているからでしょう。

 

なので、

他者の身体に何かを与えてあげるならば、

快楽・癒し・休息となり、

他者の心に何かを与えてあげるならば、

理解・承認・尊重となるでしょう。

 

■身体は、

栄養を摂っては、老廃物を排出する

あるいは、

酸素を吸い二酸化炭素を吐くといった

物理的な「代謝」が行なわれているときに、

「生きている」

と言えるものと思います。

 

一方、心は、

情報や刺激を得ては、言葉や態度や行動によって発散したり表現するといった

精神的な「代謝」が行なわれている時に、

「生きている」

と言えるのではないでしょうか?

 

身体が、

呼吸をやめ代謝をしていなければ、それは死んでいることを意味します。

 

いますぐ、AEDや人工呼吸などで蘇生術を施さなければなりません。

 

なので、

目の前の人が、情報や刺激を受け付けず、言動によって表現をしていなければ、その人の心は死んでいるのではないでしょうか。

 

いますぐ、本人の感情を吐き出させて、心の蘇生術を施さなければ、病んでしまうことでしょう。

 

多くの職場で、職員が病んでしまうことがあるのは、

この心の代謝をさせていないからではないでしょうか?

 

思いを吐き出させることで心の代謝を促し、

周囲によって理解や承認や尊重するなど、

心にとってエネルギーとなるものを与えるといったことが

行なわれていないのではないかと考えられます。

 

■従来、労働者の自殺やメンタル疾患が社会問題となり、

職場を健全にしなければならないという観点から、

ワークライフバランスとか働き方改革が提唱されてきました。

 

しかし、こうして見てみれば、

それらが、

有給休暇の取得や残業の削減、福利厚生の充実など、

ことごとく、

身体に対する施策でしかないことがお分かりでしょう。

 

そして、

心に対してのアプローチは、ストレスチェックの義務化でしたが、

それは心を元気にする施策ではなく、

病んだ時に早めにわかるようにするための対症療法でしかないのは、

お粗末というほかありません。

 

■なお、身体と心がパラレルなシーンは他にもあります。

 

たとえば性質①のように、

身体的には

「勢い余って」

「振り上げた拳の下ろしどころがない」

ということがあります。

 

運動エネルギーは、一瞬で解消することはなく、

時間をかけたり、

エネルギーを分散して

解消するほかありません。

 

それは心も全く同じで、

ずっと取り組んできたことや愛着を注いできたことについては、

一瞬で、価値を感じなくなることはありません。

 

それが、

「惰性」

という身体や運動エネルギーの性質に該当する

「執着」

という心の性質です。

 

なので、こうした心の性質を踏まえれば、

いかなることであっても、

突然心にブレーキをかけてはならない、ということがわかるでしょう。

 

反対に、性質②のように、

時間をかけて悪くなった身体は、

治るにも時間がかかるものです。

 

それは心も全く同じで、

心を病んでしまうときは時間がかかるものですが、

それが治るには同じくらい時間がかかるものです。

 

環境を変えれば

すぐにメンタル疾患が治ると思ったら間違いで、

生活習慣を改めれば、

すぐに臓器の生活習慣病が治ることはないように、

時間がかかるのが当り前だと考えておいた方が良いでしょう。

 

■また、身体や心の成長にも同じ性質が見られます。

 

たとえば、身体の場合、

トレーニングという負荷のIN-Putによって

身体が丈夫になると思われがちですが、

実はそうではなく、

トレーニングによって破壊された組織が、

修復しようとする組織活動のOUT-Putによって、

(この時に筋肉痛をともなうのですが)、

筋肉が再蘇生されて、

結果として筋肉が厚く強力なものになるのです。

 

同じように、心の場合、

勉強とか研修といった情報のIN-Putによって

思考や情操が向上すると思われがちですが、

実はそうではなく、

学んだことや受け取った情報を記憶・加工し、

さらに他者に向けてOUT-Putしたり、

行動によってOUT-Putすることによって、

初めて自分のものとなり、

結果として精神が成長するのです。

 

■さらに、

大切な人を失った悲嘆を「グリーフ」と呼びますが、

その心情を推し量れない人もたくさんいます。

 

大切な人を失った時、

自分自身も生きる気力を失い、

「あの人のいない人生がまた始まるなら、朝が来なければ良い。

このまま死んでしまいたい」

という人もあります。

 

「それがグリーフか」

と言葉で理解していては、その本心に迫ることはできません。

 

「今にも死んでしまった方が楽だ」

という心情は、

「心が瀕死の状態」

だといっても良いでしょう。

 

したがって、身体でいえば

「心肺停止の状態」

だという認識をした方が良いと考えられます。

 

目の前にそんな人がいる、と考えれば、

「いますぐ、自分にできることは何か?」

と居ても立っても居られない、

どれだけ深刻で重大な事態かが見えてくるのではないでしょうか。

 

■このように考えてみれば、

「心は目に見えないからわからない」

ものではなく、

身体にたとえてみれば、

目に見えるかのように心が見えてくるのではないでしょうか。

 

心のうち、

「どんな思想か」

「なにを正しいと考えているか」

といった思考部分は、

その人の人生経験や文化によって、

人それぞれのものがあり、複雑怪奇ですが、

 

「どんな想いか」

「なにを快く感じているか』

といった感情部分は、

生まれた瞬間から人間が持っているもので、

人生経験や文化によって左右
されない部分であるため、

万人共通であり、シンプルなものなのです。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。