「承認欲求を否定する」アドラー心理学

「承認欲求を否定する」アドラー心理学

以前、患者サービス研究所の研修内容について、ご質問がありましたので、ここでも少しお答えしておきたいと思います。

 

【質問】

患者サービス研究所は、「承認されたい欲求は、人間の根源的な欲求」なので、「承認が大事だ」と話されましたが、アドラー心理学の本では、「アドラーは承認欲求を否定している」と書かれています。
どう考えればよいでしょうか?

 

【回答:人間の感情の構造について】

■まず、「承認」つまり「無条件に理解され応援」されたいという欲求は、言い換えれば「周囲の人には味方になってもらいたい」という欲求です。

そして、その欲求は、生まれた瞬間から死ぬまで、たとえ認知症になろうと、統合失調症になろうと、無くならない(むしろ、より鋭敏になることもある)感情なので、「根源的な欲求」だと言えるでしょう。

 

一方、承認の対概念は「評価」で、「他者のものさしに照らして、良否を判断すること」です。

そして、人間は、他者のものさしを強要されることこそ最も忌み嫌う動物でもあります。

そのため、つねに評価よりも承認を求めているのです。

 

その証拠に、

さまざまなメディアを見ても、「世界に一つだけの花」、「置かれた場所で咲きなさい」「ありのままの姿見せるのよ」「どんな時もぼくがぼくらしくあるために、好きなもの好きと言える気持ち抱きしめてたい」…と、承認のメッセージばかりが街にあふれています。

「人の期待には何としてもこたえよう」「上司の覚えめでたい自分が好き」「責任を果たさなければいけないこの気持ち、言葉にできない」「瞳を閉じれば誰かが指摘してくれる姿いまも目に浮かぶ」…といった、評価のメッセージが歌や詩になったものは、ほぼ見かけません。

そんなわけで、人は誰でも頼んでもいないのに評価されるのは大嫌い。反対に、どんな人にも承認欲求があり、生涯、捨てられるものではありません。

 

「承認欲求」すなわち承認されたい欲求は、否定できません。
一方、他者のものさしに振り回されると苦しむことになるので、「評価されたい」という欲求があれば、その「評価欲求」は捨てた方が良いと考えられます。

 

また、人と良い関係性を築き、多くの真の味方、つまり多くの承認してくれる存在に恵まれた人生を創るためには、まず自分が相手を承認することが重要となります。自分が承認することで、相手も承認してくれる関係性を創ることができる糸口が生まれるからです。

反対に、人を評価することは望ましくありません。その相手を萎縮させ閉塞させる効果をもたらし、決して幸せな関係性を築くことにならないからです。

 

■本題であるアドラー心理学では、これらのことを、異なる言葉で説明しているのです。

 

まず、「評価されたい欲求」のことを、「承認欲求」と呼んでいます。なので、アドラーが「他者のものさしに答えようとすることは良くない」と主張する際に、「承認欲求を否定する」と表現しているのです。

 

また、評価することも「他者のものさしに照らして良否を判断すること」になるので、好ましくありませんが、この「評価」のことを、アドラーは「褒める」と呼んでいます。なので、「相手を、他者のものさしに当てはめようとしてはいけない」と主張する際に、「褒めてはいけない」と表現しているのです。

 

そして、最も大事な「承認する」ことは、アドラーは「承認」と言わずに、どのように呼んでいるかというと「勇気づけ」という言葉をつかっています。日本語で「勇気」というと、何かに挑むことが前提というニュアンスが感じられますが、何かに挑む気力もないほど心が傷ついている時には、勇気づけよりも、「承認=無条件の理解と応援」の方が、心からの癒しを得られるのではないでしょうか。

 

では、お互いに無条件に受け止め合い、真の味方同士の関係性を創るためには、どうしたらよいか?については、どう説明しているでしょうか?患者サービス研究所では、まず、「自分が承認すること」と書きましたが、アドラーは「共同体感覚を持て」と説いています。
「共同体感覚」とは、自分が貢献したい相手に貢献して共同体となる感覚だそうです。日本語で「貢献」というと、時間なり労力なり、何か自分からも支払うことを伴うニュアンスが感じられますが、自分の時間や労力を支払う気力もないほど疲弊している時には、貢献しようとするよりも、素直に「応援してもいいな」と思える相手を、無理することなく自然体で理解し応援する方が、現実的ではないでしょうか。

 

■まとめると、

患者サービス研究所 → アドラー心理学

「承認」 → 勇気づけ

「評価」 → 褒める

「評価されたい欲求」 → 承認欲求

承認されるためには…

「自分が承認すること」 → 共同体感覚を持つ

 

このように、ほぼ同じことを意味しているのですが、用語が異なっているものと理解いただければ良いと思います。

 

あくまで私的見解ではありますが、
また機会があれば、このブログに書かせていただきます。