■昭和の組織論が生み出した概念に
「プレイング・マネージャー」
というものがあります。
「マネージャーたるもの、部下と一緒に汗をかくべき」
「一緒に汗をかかなければ、部下の気持ちはわからない」
「マネージャーも仲間である以上、1人分の役割を果たすべき」
・・・といった理屈が、
プレイング・マネージャーという存在を
正当化するロジックでしょうか。
これらの主張も一理あるでしょう。
■しかし、
何事も、明確な目的(ゴール像)がまずあり、
そこから、
「どんな手段が良いのか?」
が決まるものです。
なぜなら、手段の良い・悪いは、
すべて、
ゴールに向かっているのかどうか?で
決まるからです。
ゴールなくして、
良いも悪いもありません。
■そこで、まず、
「マネージャー」
という役割の目的、
マネージャーを置いて実現したいゴール像とは
何か?
それは、
改めて言うまでもなく、
「全社員が持てる力を全て発揮し、
組織として最大限のパフォーマンスを実現すること」
に、尽きるでしょう。
この「パフォーマンス」とは、
昭和の時代ならば、
「任された業務」
のことを指していたでしょう。
しかし、
これからの激変の時代においては、
「人の問題をどうするか?」
「資金をどのように調達するか?」
といった経営者レベルの課題にも
どんどん社員が関心を持ち、
答案を上げてくるような
総力経営が望ましいと考えられます。
さらには、必要とあれば
「事業部を新しくつくる」
「既存の事業部を廃止して、別の展開をする」
さらに言えば、
「会社の業態を別の業態にシフトする」
といったダイナミックなことも
含まれて良いでしょう。
すべての社員が
経営の視点で考え行動することが、
全員参加の総力経営だからです。
目指すべき組織のゴール像として、
これ以上のものはないでしょう。
■さて、
その前提に立った時、
マネージャーは必ずしも
プレイング・マネージャーでなければならない理由が
あるでしょうか?
果たして、
部下たちが視野を広げ、
ダイナミックな発想で、
問題提起や改善提案をどんどん挙げてくるように
なるためには、
マネージャーが、
プレイヤーの側面を持っていることが必要とは
言えないでしょう。
むしろ、
「自分ではできないので、みんなの力を貸してくれ」
と、まったくプレイできないマネージャーである方が、
部下の力を引き出すには、
好都合であるとさえ考えられます。
また、
部下一人ひとりが
何に関心を持ち、
どういう課題に取り組んでみたいのか、
といったことを引き出し、
それが実現できるような環境を整えることは、
自分の担当業務の片手間にできるような
簡単なことではありません。
なぜなら、
部下の気持ちを尊重し応援しようとすれば、
それはタイミングを逃してはならず、
他部署や外部の協力を取り付けるなどの
支援をする必要がある場合もあるからです。
一人のプレイヤーとしての業務を担っているよりも、
日々現場から挙がる部下たちのダイナミックな行動を
支援した方が、
はるかに生産性が高くなるのです。
■このように考えてみれば、
昨今、一部で主張されるような、
「マネージャーはできるだけ業務を手放し、
マネジメントに専念した方がよい」
という考え方の方が、
合理的であることがわかります。
冒頭の
「マネージャーたるもの、部下と一緒に一緒に汗をかくべき」
「一緒に汗をかかなければ、部下の気持ちはわからない」
「マネージャーも仲間である以上、1人分の役割を果たすべき」
・・・が、精神論的であると感じられるでしょう。
というのも、
ダイナミックな部下たちほど、
「一緒に汗をかいて欲しい」
などといった組織内部への内向きな発想に関心がありません。
なぜなら、
そんなことよりも、
「うちの業態をどうシフトするか」
「新たなマーケットはどこにあるか」
「どこの同業他社を吸収すると良いか」
「行政と連携するにはどうすれば良いか」
・・・といった、
文字通りダイナミックなことを考える場合、
必ず、目が外に向いているからです。
プレイング・マネージャーが
自分の担当業務をしていては、
ダイナミックな部下を
全速全力で応援してやることができず、
ビジネスチャンスを失ってしまうかも知れません。
■さて、
それでも、
「マネージャーたるもの、部下と一緒に一緒に汗をかくべき」
「一緒に汗をかかなければ、部下の気持ちはわからない」
「マネージャーも仲間である以上、1人分の役割を果たすべき」
・・・といった考え方を大切にしたいでしょうか?
それとも、
部下たちが驚くような問題提起や改善提案を
どんどん挙げて、
実践してゆくダイナミックな組織にしたいでしょうか?