「承認」は心の生命線・・・いじめ自殺をなくすカギ

「承認」は心の生命線・・・いじめ自殺をなくすカギ

■普段、あまり意識していないかも知れませんが、

実は、誰にとっても、 誰かから承認されるかどうかは、命に関わる大問題です。

 

したがって、接遇においても組織論においても、

「承認」を理解しておくことが基礎の基礎となります。

 

先日、またいじめが原因と思われる自殺がありました。

なんど繰り返せば、次の時代に進めるのでしょうか?

 

この「承認」に関連することなので、

いじめについてのアングルから書かせていただきました。

 

あくまで私見ですが、

一考いただければありがたいという思いで書かせていただきます。

 

 

いじめを無くすことは不可能に近い

 

そもそも、いじめをするな、と言ってゼロにすることは、

不可能に近いと考えています。

 

人間は、うまれてすぐは、家庭が世界であり、

誰もがママ大好き、パパ大好きです。

 

しかし、自分のコントロールというものを知ると、

いやいや期に入り、自分の力を確かめようといます。

 

しかし、承認されることも大事で、

「友だち100人できるかな?」

と楽しみにして幼稚園に入り、

友だちが100人に達する前に、

また自分のコントロールの力を確かめようとして、

友だちの好き・嫌いを主張します。

 

いじめは、それ(自分のコントロールの力)を確認する作業の

側面もあるでしょう。

 

エスカレートして、友達を傷つけることもあれば、

暴走行為をして大けがをすることもあります。

 

しかし、やはり承認されることも大事で、

会社に就職したりしますが、

そこでも、自分らしく生きられなければ、

メンタルトラブルに陥ったりします。

 

このように、人間には、

自分にコントロールする力があるかどうかを

常に確認したいという欲求があるのではないでしょうか?

 

そのため、大人が見ていない場では、

エスカレートすることもあり、

いじりなのかいじめなのかの境界線もないため、

いじめをゼロにすることは不可能に近いと思うのです。

 

 

承認されないことが死ぬほど苦しい

 

いじめの何が最もつらいのか?

 

毎日叩かれるとか、毎日持ち物を盗られるといったことも もちろん、苦痛です。

 

ただし、もっとも苦痛なのは、

周囲が味方になってくれない、ということ、

「承認されない」とういことではないでしょうか?

私たち大人も同じでしょう。

想像してみて下さい。

会社に行き、仕事をして、成果を上げても、

「そのために出勤しているのでしょう?」

と、誰もが当り前に受け止めている。

 

感謝も尊敬もされず、

したがって、必要以上の挨拶も返事も笑顔も かえって来ることはない。

 

誰一人、

「あなたで良かった」

「あなたと働けて嬉しい」

という者はなく、

利用価値にだけ関心を払われている。

 

もし、配転された先がそんな職場だったら、

いったい、何日間、出勤し続けられますか?

 

誰からも敬意を払われないところで、

人は生きてゆく勇気を持つことはできない、と

わたしは思います。

 

ただし、学校に行くようになった子どもは、

親からの承認(家庭からの承認)を求める段階から、

社会からの承認を確かめたい段階になっているので、

社会からの承認が必要なのです。

 

「社会=学校」

と映っている子どもにとっては、

学校で承認されないことは、

世界から承認されないことと同じに映り、

生きてゆく勇気を持てなくなってしまうのでは ないでしょうか。

 

 

「承認される環境を設計する」

 

学校に行けば、

同級生たちが勉強でも勉強以外でも常に張り合い、

自分のコントロールの力を確かめあっているため、

そのエネルギーが 時としていじめとなり、

大人の目の届かないところでは、

ある意味おのずとエスカレートする、とも言えます。

 

その時、子どもが、

学校から承認されないことによって、

「この世界から承認されない」

と認知すると、生きてゆけないという結論に至ってしまい かねません。

 

そこで、周囲ができるのは、

「学校以外に、承認される環境を創ってあげること」

ではないか、と思います。

 

地域のスポーツ・サークルでも結構です。

伝統芸能を継承するための市民団体でも結構です。

阿波踊りやよさこいの連(チーム)でも、

市のブラスバンドでも、 何でも結構です。

 

近い年頃の子どもばかりではなく、

大人もいて、青年もいて、

張り合う必要のない余裕のある立場から、

「良いところは良い」

と、ハッキリと承認してくれるコミュニティに入ることで、

子どもは、

「社会から承認」されることができます。

 

自分には生きる意味があり、

理解し応援してくれる人もたくさんいるのだ、と

感じることができていれば、

「学校で承認されないこと」

は、

(もちろん不愉快であることには変わりありませんが)

「人生において、小さな部分でしかない」

と思えるのではないでしょうか。

 

さらに、

「学校の同級生のいじめが幼稚で低俗なことであり、

自分には、

無条件に理解し応援してくれる たくさんの大人たちや先輩たちがいるのだ」

と、

自分の軸足を持ち、揺るがないことができるのでは ないでしょうか。

 

 

揺るがない自己

 

つまり、

学校以外に、

きちんと承認してくれるコミュニティに属させることを通じて

「学校だけが全てじゃない」

と伝えてあげることができるのです。

 

親が

「守ってあげる」

といって、子どものささやかな自尊心を損なうこともありません。

 

2つでも3つでも、

学校以外のコミュニティに入って、

公正で冷静で客観的な大人や先輩の言葉で、

充分に承認してもらうことによって、

こう考えることができるのではないかと思います。

 

「学校でいじめられているからといって、

この社会全体が自分を承認しないのではない。

学校で承認されなくても、

そんなのはこの社会のほんの一部に過ぎないのだから、

まったく気にする必要はない。

むしろ、いじめが横行する学校の方が間違っているのだ。

戦ったり努力するならば、

いじめに対してではなく、 もっと価値のある挑戦をしたい。

だから、

自分の良さが活かせない学校になど執着せず、

さっさと転校してスマートに生きてゆくことの方が、

クールな選択なのだ」

 

そして、子どもが、

転校してでも自分を活かすことが恥ずかしいことではないと

考えてくれるようになったならば、

もしかしたら、子どもの方から、

「お父さん、お母さん、

もっと自分が成長できる環境を選びたいんだけど、

いまのくだらない奴らがいる学校から、転校できないかなぁ」

と胸を張って提案してくれることも可能になるでしょう。

 

 

いじめが無くならないとしても

 

「いじめをするな」と訴えることも もちろん重要です。

 

その一方で、

子どもに対して、親以外からの多角的な承認を 充分に与えることができれば、

すくなくとも、

「学校でのいじめ=自殺」

の構図を壊し、

自殺を回避することを可能にする一助になるのではないでしょうか。