周囲の理解を取り付けるためには「釈明力」が必要

周囲の理解を取り付けるためには「釈明力」が必要

■今回の吉本興業社長の記者会見をご覧になりましたでしょうか?

 

ひとえに、説明力の問題だと感じた方も多かったのではないでしょうか。

 

すなわち、自分の思考を言語化して表現する能力です。

 

■タレントが

「お金は受け取っていない、と言ったけれど、

実は受け取っていた。

すべてを公にして謝罪したい」

と申し出た時、

 

「コロコロと話が変わるタレントに振り回されてはならない」

とと考え、

 

会社としては、

さまざまなステークホルダーへの影響を充分に考慮した上で、

きちんと作戦と立てた上で、

会見を開きたいと考えるのは、当然でしょう。

 

とすれば、社長は、

「お前たちの気持ちはわかった。

ただ、不要な迷惑をかけることにならないよう、

きちんと策を講じて対処したいから、

協力してくれ」

と、

「課題を共有」

することで、

一緒に悩む仲間同士という立ち位置に立てば済んだはずです。

 

しかし、社長は、

「勝手なことをするな」

と、敵対関係を築いてしまった、という構造です。

 

それも、

「勝手に動けばクビだ」

「他のタレントも連帯責任だ」

と、芸能人生命を奪うと言い放ったのですから、

「言うことを聞かないと殺す」

と銃口を突きつけたのと同じで、

これ以上、相手を蹂躙する敵対関係はありません。

 

しかし、今日の社会では、被用者は

「辞める」

という選択肢もあり、

被用者という社会的弱者であっても、

「個人が情報発信することが可能」

な時代でもあるのですから、

 

この社長が、

使用者が、被用者のすべてを支配することができる

と思っていたらしい点は、

時代錯誤も甚だしいと言わざるを得ないでしょう。

 

ここまでは、対タレントにおける説明力について。

 

■記者会見では、

「そんなつもりではなかった」

「冗談のつもりだった」

と話していましたが、

まったく説得力がなかったと感じたのは私だけではないでしょう。

 

5時間半も話を聞いてもらうことができ、

充分すぎるほど釈明の機会を与えてもらえたならば、

記者から、

「社長、至らないところはあったけれど、

あなたなりに、充分やれることはやったのですね」

と感じてもらえなければいけません。

 

「タレントからの申し出があった時に、

どのように考え、悩んで、動いたか」

について、ありのままに、言葉を尽くして伝えれば、

記者側も、

あたかもその場にいたように状況がわかり、

「社長が、今回このように行動したことも無理はない」

と同情してくれる余地がうまれたはずです。

 

涙を流すほどの想いがあり、

5時間半も話を聞いてもらえたのに、

その想いが伝わるように説明できなかったのは、

あまりに表現力が乏しいと言わざるを得ません。

 

みなさんも、

どうしても判ってほしいことがあり、

5時間半も時間をもらえたならば、

おそらく、相手が

「もういいよ、気持ちはよく判ったよ」

と言ってくれるところまで、きちんと説明できるのではないでしょうか。

 

というより、

5時間半も話を聞いてもらいながら、

記者から

「もういいよ、気持ちはよく判ったよ」

と言ってもらえなかったのは、

ある意味、すごいことかもしれません。

 

ここまでが対記者会見における説明力について。

 

■さて、わたしたちの現場でも、

「パワハラのつもりはなかった。

が、相手がパワハラだというなら、パワハラなのでしょう」

といわざるを得ない場面が、なくはないでしょう。

 

しかし、

「相手次第」

となれば、

「嫌われたら終わり」

ということでもあり、

それはそれで理不尽ではないでしょうか。

 

上司の多くは、

「この部下をどう指導すればよかったのか、

むしろ教えてほしい!」

という本音を持っているのではないでしょうか。

 

箸にも棒にもかからない部下でも、

「傷つけられました」

と言いだせば、

すべてが帳消しになる、というのも、正しいこととは言えません。

 

では、どうするか?

 

今回の吉本興業の社長からも学べることで、

とりもなおさず、

「自分がどのように手を尽くしてきたか」

をきちんと釈明できる説明力を身につけることが、

これからの社会人には必要とされる、ということでしょう。

 

具体的には、

「何月何日に、こんなことがあった」

「何月何日に、こんな指導をした」

「何月何日に、部下にこんな言動(非行)があった」

「何月何日に、それに対するこんな指導をした」

「それでも、何月何日に、こんな言動が繰り返された」

「そこで、何月何日に、他の管理職同席のもとで、こんな指導をした」

「にもかかわらず、何月何日に、こんなことがあった」

・・・と、克明に客観的事実を蓄積しておくことです。

 

また、部下の同意があれば、

つねに第三者が立会うことを認めた上で、

相手と接触するということです。

 

むしろ、

つねに第三者が見ていたならば、

「なぜ、そんなことをしたのか?」

と、後から非難されることはないからです。

 

むしろ、その第三者が、

「わたしもプロセスを見てきた。

部下にも相当に非があります」

と弁護する立場に回ってくれるはずです。

 

「テープ回してないやろな?」

ではなく、

「テープを回してもいいからね」

と、相手に選択させるのが、正解ではないでしょうか。

 

そう言えなかったのは、

仲間同士の立ち位置に立つという発想がなく、

みずから敵対関係の構図を作り出してしまう発想があったためで、

そのため、おのずと

タレントも社長の考えに振り回されずに、

自由意志で動くに至った、というわけです。

 

■今回の社長のように、

世間にも釈明することができず、

部下にも説明する力がない、

という経営者・管理職は、少なくないことと思われます。

 

なにしろ、我が国の社会では、

そんな力を求められてこなかったのですから。

 

しかし、これからは、言語化し、説明し、釈明する力が、

上司に対しても、

部下に対しても、

クライアントに対しても、

社会に対しても、必要となるでしょう。