■先日のニュース。
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早稲田大学商学部のリモート講義について、
学生が複数のリモート講義を同時に再生して試聴していたことがわかり、
教授が100人以上の学生の評価に「不可」をつけた。
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■「学生も悪いが、そこまで罪の意識はなかったと思うので、
不可は厳しいのではないか」
「学生も良い経験になったはず。今後に役立つのではないか」
などといった意見が交わされていました。
■その反対に、
「いかに大学に知恵がないか」
を露呈した事象だったのではないでしょうか?
そもそも、
「受講するか、どうか」
はそれほど問題ではないでしょう。
講義に出席しても聴いていない人もいます。
講義に出なくても知見を得ている人はいます。
大学では、受講という形によろうとよるまいと、
理解し行動できていることが大事ではないでしょうか。
そして、実社会で活かせる言動ができれば良いはずです。
反対に、講義には出たが、
理解もできていない、
行動にもつながらない、ということを求めているのでしょうか?
■わたしたち社会人も、
忙しければ、書物を斜め読みすることもあり、
動画セミナーを、倍速で試聴することもあります。
幼い子供がいれば
あぐらの中に座らせて、
すこしばかりおしゃべりしながら受講することもあるでしょう。
そして、得意分野であれば、
動画をスキップすることもあります。
しかし、そんなことは問題ではなく、
「大事なのは、理解できたかどうか」
「行動につなげられたたかどうか」
だと、わたしたち誰もが考えていることでしょう。
■にもかかわらず、学生たちには
理解できたかどうか、行動につながったかどうかを問わず。
受講したかどうかだけを問い、
それで評価をつけるのは、
なんとナンセンスなことでしょうか。
それも、大学が、です。
知の都であるはずの大学で、
「受講したかどうかは自分達に任せる。
理解できたかどうか、
どのような行動に繋げることができたかどうかを
実証しなさい」
と、
結果で評価をつける方法を
示せないことを露呈したということにならないでしょうか。