■今回、
女子大生が茨城で殺害され遺棄された事件が報道されました。
いまだに、被害者と犯人はインターネット上の掲示板で知り合ったらしいとはいうものの、
詳しい関係性が見えてこないようです。
つまり、被害者と犯人の関係性は、
観念的には「密室」だったということができます。
■また、小学生の女の子が、父親に虐待され、殺された事件がありました。
古くから
「法は家庭に入らず」
という思想があり、
家庭の中に公の強制力が立ち入らないのが建前ですので、
どうしても家庭は「密室」となってしまいます。
それなのに、
児童相談所が子供を数日だけ預かるという、
中途半端な介入があったために、
父親を刺激してしまい、
さらには教育委員会が、
子供の書いたアンケートを父親に見せてしまうということがあり、
最悪の展開に至ったことが悔やまれます。
■さらには、明石市長が、市職員に暴言を浴びせた音声が録音され、公開されました。
前後の経緯を聞けば、
市長にも大いに言い分があり、
それを録音して公開した職員の方こそ、逆恨み以外のなにものでもありません。
しかし、市長室が「密室」だったことが災いしたとも言えるでしょう。
■このように見てみれば
「インターネット上の掲示板が危険」
「児童相談所の対応が不十分だった」
「教育委員会の判断が間違い」
「市長がひどい」
「いや職員が悪い」
といったことが、表面的な議論でしかないことがわかるでしょう。
もちろん、
インターネット上の掲示板を取り締まったり、
児童相談所や教育委員会の改革をしたり、
市長や職員を罰したりすることも意味があるかもしれません。
しかし、それらはいずれも、対症療法だということは明らかです。
■すなわち、問題の本質は、
「密室」
にあるということです。
正確に言えば、
「密室では、強者が弱者を蹂躙する」
という人間の性質に、問題の本質があるということです。
DVも、
いじめも、
学校の体罰も、
セクハラも、
パワハラも、
相撲界の暴力問題も、
アメフトの内田監督の件も、
日大の田中理事長も、
アマチュアボクシングの山根会長の横暴も、
「密室」
の中で起きているのです。
こうしてみれば、
密室の中では、
強者がのさばり、
弱者を踏みにじる、という人間の性質が見えてくるのではないでしょうか。
時と場合と相手によっては、
自分が正しいからこそ、
相手を蹂躙してしまう、ということもあるので、
そうならないよう自戒も必要です。
ともすると、自分が正しいと思うからこそ
密室で暴走してしまい、
ある時、突然、
その様子が公の目にさらされた時、
にわかに羞恥や後悔に見舞われることにもなりかねません。
このように人間の心理構造から考えれば、
インターネットの掲示板が悪いのではないことがわかるでしょう。
児童相談所や教育委員会を改革したり、
市長や市職員を教育しても、
本質的な解決にはならないということがわかるでしょう。
■このように心理構造から考えれば、
重要なのは、
「人間を密室に入れない」
ということでしょう。
少なくとも、自分が人を蹂躙しないためには、
「自分を密室に入れない」
ことです。
仮に密室の中にいても、
自分が暴走しないためには、
「誰に聞かれても問題のない話しかしない」
ということでしょう。
組織や社会で、人が蹂躙されないようにするためには、
「密室をつくらない」
ことです。
具体的には、原則として、人と接する時には、
「いつでも第三者が入ってくることができる環境」
にする、ということになるでしょう。
■もし、インターネットの掲示板で知り合ったとしても、
友人・知人にもその状況を伝えておいたり、
相手と会う時には友人・知人も同席させたりして、
第三者から見える状態にしておく、ということです。
もし、子どもを虐待から守るならば、
虐待していると思われる親のいる密室に子どもを返さず、
いつでも第三者が様子を見にくることができる状態、
もしくは、
第三者のもとへ子どもを定期的に連れて来なければならない仕組みなどを講じる、ということになるでしょうか。
もし、市長が暴言を口にしないようにするならば、
市長室をオープン・スペースにしたり、
市長がつねに他の職員がいる前で打ち合わせをしたり、
第三者から様子が見え、声が聞こえる状態にしておく、ということです。
■個人を尊重しプライバシーを保護することも重要ですが、
同時に、
個人の尊重・プライバシーの保護が充実するほど、
「密室」
が生まれるのですから、
弱者を蹂躙することがないように、
みずからを自制することを研究し、実践してゆくよう、
人類は成長しなければならないはずです。
このように人間の心理構造から答案を導き出せば、
インターネットの掲示板や
児童相談所・教育委員会や
市長と市職員といった外観的な事象にとらわれることなく、
本質的な解決に近づくことができるはずなのです。
■組織論にも同じことが言えます。
「どんな研修をするか?」
という研修の形ではなく、
「どうしたら、職員が自分たちで研修を企画しだすか?」
という職員の心を考えることが大事です。
「どんな待遇にすれば離職を防げるのか?」
という形の問題ではなく、
「どうしたら、この職場ではお金では買えない体験がある」
という心にすることができるのか、職員の心を考えることが大事です。
「どんな受け答えをすればクレームが減るのか?」
という形の問題ではなく、
「どうすれば、患者さんは、この病院があるから安心だ、と心から安心してもらえるのか」
と、心を考えることが大事です。
こうしてみると、世間で交わされている話の多くが
表面的な形の問題であり、
本質をとらえていないことがわかるでしょう。
特に、組織論(つまり、モチベーション、リーダーシップ、コミュニケーション、ホスピタリティなど)の多くが、
人間の心理構造を捉えていません。
つまり、
組織の本質を捉えていないということです。
なぜなら、これら既存の組織論が、いずれも、
大量生産の時代の高度経済成長期に、
トップダウンが当り前の社会風土の中でつくられてきたものばかりだからです。
トップダウンが当り前の中では、
人間の心理構造を探究する必要がないのですから、
ほぼすべての組織論が、
心をとらえず形にとらわれる発想になってしまったのは、必然です。