「できれば」では意味がない。接遇はどれくらい重要か?

「できれば」では意味がない。接遇はどれくらい重要か?

■みなさんは、職員から

「接遇は、どれくらい重要なのですか?」

と訊かれたら、

どのように答えますでしょうか?

 

「重要。できたら意識して欲しい」

でしょうか?

 

それとも、

「重要。しっかり意識して欲しい」

でしょうか?

 

それとも、

「重要。医療行為と同じくらい真剣に実践して欲しい」

でしょうか?

 

体感的には、

2つ目のニュアンスの回答をする現場が多い気がします。

 

しかし、それは、

「0でもなく100でもない。その間でやってね」

ということになるので、

事実上、職員任せとなりますから、

「意識して欲しい」

と祈っているのと変わりません。

 

ちなみに、1つ目の

「できたら」

は、多忙を極める現場職員にとっては

「できなくても良い」

と言っているのと同じことを意味します。

 

■しかし、

「できなくても良い」

「職員次第」

で、本当に良いのでしょうか?

 

それはつまり、

「できていなくてもOK」

で良いのか?という問いでもあるのです。

 

■そもそも、患者さんの信頼はかけ算です。

 

一般に言われる

「一人でも0点がいたら、病院全体が0点にされちゃうのよ!」

という意味ではありません。

 

ここでいうかけ算とは、

「患者さんの信頼=職員の持つ技能×職員が最前を尽くすこと」

という意味です。

 

まず、

職員の技能は、

1点から100点まであるでしょう。

 

一方、

職員が最善を尽くしているかどうかは、

最善を尽くしていれば1、

尽くしていなければ0、

と0か1しかありません。

 

つまり、

職員が100点の技能を持っていても、

職員が最前を尽くしてくれていなければ(0点ならば)、

総合的には0点になるといういことです。

 

■なぜか?

 

患者さんは、

「この医療機関では最善を尽くしてくれているのかどうか?」

を見ているからです。

 

もし、

医療従事者が最善を尽くしてくれていると感じられない場合には、

患者さんは、

「ここでは、ありったけの選択肢を出してくれていないのかもしれない」

と感じることになるので、

「ここじゃダメだ。

ちゃんと診てくれるところで受診し直そう」

と、0点になってしまうのです。

 

逆に、

医療従事者が最善を尽くしてくれていると感じられれば、

患者さんは、

「ここで示してくれた以外の選択肢はないだろう」

と感じるので、

「あとは、ここの技能にお任せするかどうかだ」

となるのです。

 

■そして、

患者さんに

「この病院は最善を尽くしてくれている」

と感じさせることができるのは、

マニュアルでもなければ、

施設設備などのアメニティでもありません。

 

職員一人ひとりの対応の様子です。

 

では、どんな対応があれば、

「最善を尽くしてくれている」

と感じるでしょうか?

 

それは、

「時と場合と相手に応じた柔軟さがあるか?」

で、見られていると考えて間違い無いでしょう。

 

■もし自分が受診した病院で、

職員が最善を尽くしてくれていなければ、

「他にもっと良い選択肢があるかもしれない」

と考えるのが患者さんの心理です。

 

そして、みなさんが患者さんだったとしても、

何よりも

「(他にもっと良い選択肢があるならば)それを知りたい!」

に決まっているでしょう。

 

「他にもっと良い選択肢があるかも知れないけれど、

まあいいや」

と思う人は、まずいないはずです。

 

したがって、

「最善を尽くしてくれる病院なのか?

そうではない病院なのか?」

は、何よりも大問題なのです。

 

「医療に関する技能がどれくらいなのか?」

その後の問題なのです。

 

というのも、

どんなに優れた技能があっても、

その技能を総動員してくれない病院ならば、

最善の選択肢を示してもらえないからです。

 

技能が100点であれ、10000点であれ、

最善を尽くす気がなければ、

患者さんにとっては、

「100 × 0 = 0」

または

「10000 × 0 = 0」

となり、

「0点の病院」

となってしまうのです。


腕は確かだが、

最近どうもやる気にムラがあり、

最善を尽くすかどうかわからないゴルゴ13に、

仕事を頼むでしょうか?


これが

「100 × 0 = 0」

つまり、

「信頼はかけ算」

ということです。


■こんな場面を想像してみてください。

 

あなたが病院で受診したところ、

医師から

「安心してください。

来月にでも手術しましょう。

それで完治することでしょう!」

と治療方針が提示されました。

 

そこで、あなたが訊きます。

 

「先生、念のため、確認したいのですが」

 

「なんでも訊いてください」

 

「今日の診断、最善を尽くして下さっていますよね?」

 

「はい。ほぼ、最善を尽くしていますよ」

 

「ほぼ、とおっしゃいますと、

他の選択肢があるということでしょうか?」

 

 「いえ。

他の選択肢は、ほぼありません」

 

みなさんは、

「ほぼありませんという答えなんかない。

有るのか、無いのか、のどちらかだけだ」

と思うことでしょう。


そして、もし有るならば、

「その最後の一つこそ、

自分にとって最良かもしれない。

その選択肢の長所短所も聞きたい」

と思うのではないでしょうか?


患者さんにとっては、

「時間はかかっても副作用だけは避けたい」

「お金はいくらでも払うので、痕が残らないように」

「とにかく治療や検査に伴う苦痛の最も少ない方法を」

と、それぞれ異なった「最善」があります。


なので、そうした気持ちを抱えながら

「ほぼ全てというのだからいいや」

とは思えないのではないでしょうか?

 

「ほぼありったけすべてを提示していますから、安心して下さい」

と言われて安心できるものではない、

それが患者心理でしょう。

 

だから、

「最善を尽くしてくれている」

ということが伝われば1、

伝わらなければ0…、

その2つしかないのです。

 

そして、それを表現するのが

医療現場における「接遇」なのです。

 

■「できたら」

やれば良いというものではありません。

 

最善を尽くしくれていることが伝わらなければ、

患者さんは、

さらなる最善の選択肢を求めて、

他の医療機関を訪ねなければならなくなるのです。


そして、二度と戻っては来ないでしょう。


これが医療接遇と他の接遇の本質的な違いです。