■「承認」と「評価」の違いについて説明しましたが、
「わからなくもないけれど、
本当に、承認されると人間は元気や勇気を持つことができるのか?」
と疑問に感じた方もあったのではないでしょうか。
「そんな傾向があるからそうなのだ」
ということでは、納得がいかないでしょう。
そこで、
「承認が心に響く」
心理構造について、解説しておきたいと思います。
■一言で言えば、
承認されたいという「承認欲求」は、
人間の最も根源的な欲求だから、ということです。
たとえば、
生まれた瞬間から、泣きながらこの世に出て来て、
周囲の助けを求めなかった人はいないでしょう。
また、歳をとって認知症になったとしても、
最後まで残るのは「プライド」だ、と言われていることはご存知でしょう。
ここに言うプライドとは、
「自分を軽んじられたくない」
という欲求であり、承認欲求の一側面だと言えるでしょう。
実際、認知症になり、
「お父さん、今日は随分顔色が良いですね」
と自分の顔を覗き込んで話しかけてくるこの男は誰か?
息子とわからなくなってしまったとしても、
「味方なのか?敵なのか?」
という意識だけは働きます。
統合失調症になって、
いないはずの人が見えたり、
声が聞こえたりしても、
「その幻覚の中に登場する人たちが、自分の味方なのか?敵なのか?」
という意識だけは働き続けます。
生まれた瞬間から、死ぬ瞬間まで、
片時も途切れることなく、
わたしたちの心理の根底に存在する強烈な感情、
それが承認欲求ではないでしょうか。
■学校で誰にも相手にしてもらえず、自殺する学生もありました。
職場で誰からも理解されず、自殺した会社員もありました。
身体にとって酸素が生命線であるように、
心にとっては、周囲からの承認が生命線だと言ってもよいでしょう。
マズローの言うように、
安心が感じられれば、それ以上が満たされなくても、
そのステージで過ごして居られるということは、ありません。
将来の生活の安心がどんなに感じられても、
周囲からの愛と所属の欲求(つまり承認欲求)が満たされなければ、
自殺してしまうことすらあるのですから。
■人間は、こんなに承認欲求を抱えているにも関わらず、
「承認される」
すなわち、
「無条件に理解され応援される」
ことは、人生において、当たり前ではありません。
たとえば、生涯に、自分を無条件に理解し応援してくれる人が
いったいどれだけ現れるでしょうか?
まず、大抵の場合、両親は、自分を承認してくれるでしょう。
たとえ自分が犯罪に関わったとしても、
事故や病気で何一つ人の役に立つことができなくなったとしても、
両親だけは、
「おまえはなにがあってもわたしたちの子供だからな。
一生、一緒に生きてゆくからね」
と無条件に受け入れてくれることでしょう。
次に、生涯の伴侶として選び選ばれた配偶者でさえ、
承認してくれるかと言うと、早くも、怪しいところです。
まして、それ以外に承認してくれる人が現れることは
極めて稀ではないでしょうか。
■だからこそ、みなさんが、相手の上司として、あるいは同僚として、
「承認」
つまり
「無条件に理解し、応援」
すれば、みなさんは部下にとって、
「かけがえのない大事な存在」
となることでしょう。
■こうしてみれば、
「承認欲求」
は他の全ての欲求とは次元の違う、
根源的な欲求であることが感じられるのではないでしょうか。
■なお、アドラー心理学を学ばれた方の中には、
「アドラーは、承認欲求を持つな、と言っている。
どういうことか?」
と疑問を抱かれる方もあるかもしれないので、補足して起きます。
アドラーが主張しているのは
「人から認められたいという欲求を持たない方が良い」
ということで、
「承認欲求」
という言葉を使っていますが、
その意味は、
「評価欲求」
を指していると理解するとわかりやすいでしょう。
確かに
「人から認められたい」
という
「評価欲求」
に振り回されていては絶対に幸せにはなれません。
なぜなら、他者のものさしは、
他者の数だけあり、
それぞれが異なるばかりか、
一人の他者のものさしも時間とともにどんどん変化するので、
それに応えようとすればキリがないからです。